2005-10

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2005.10.30 Sun
瞼の光

幼少の砌、瞼の裏を見るのが好きでした。実験です。色んな明るさの元で、眼をつむり、眼球をぐりぐり動かして、瞼の裏を見つめるのです。眼を開いていたときの残像が輪郭を失い、パチパチとはぜる光、ふわふわと漂う糸屑、ネオンのように光るライン。明るいところでやると、赤色っぽいチカチカした世界。これは血の色よね。暗いところでやると、ブルーっぽい無機質な世界。眼を少し押さえると、光が強くなって、離すとまた暗くなって。長くやっていると気持ち悪くなるのですが、けっこうはまってました。インスタントドラッグヴィデオ。こんなことを思い出したのも、蠱師のアニメを見たからです。わたしはあの漫画けっこう好きで、ときどき立ち読みするのですが、『瞼の光』という話です。

あらすじ
『瞼を閉じた時に見える、闇の中の光。そして、ふたつめの瞼を閉じた時、上の方から本当の闇が降りてくる。ふたつめの瞼に棲む蟲が光を奪うと、そこには本当の闇と光の河が流れる』
http://www.mushishi.jp/ より

ということで、そのあたりの感覚が美しく映像化されていて、懐かしく感じました。今思えば、瞼の裏にあると感じていた地図に眼を凝らしていたのかなと思います。こどもの頃のそんな闇との戯れ、その根源にある孤独はどこからきていたのでしょうね。いや、ほんとうにひとりだな~っておもってたな~ひとりで死ぬんだな~っておもってたな。まあ今でもときどき思うけどね。
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2005.10.28 Fri
ヒント

境界って何?と近しい人に質問してみたところ、こんな風に説明してくれました。

『確かに君の言うように厳密な意味で境界というものは存在しないかもしれない。それどころか、「わたし」という存在なしで世界が本当に存在しているのか知ることはできない。それは様々な分野の科学者たちが考えてきたことだし、それを調べることも悪くないことだと思う。ただ、いま言えることは、境界という考え方において重要なのはスケールなのではないかということだ。人は自らの寿命に応じた時間のスケールと、生活範囲に応じた空間のスケールを持っている。現代は、今まで知り得なかったスケールのものが見えたり、語られたりしているので、君はより混乱しているのだろう。人の持つスケールについてもう一度考えてみよう。「わたし」という肉体が、空気の満ちた空間を通じて、ある存在に接触したとしよう。その時に生じる「在る」という感覚は、スケールの違いから生じているのではないか。空気の「在る」領域に存在する分子(=エネルギー)の密度と、人や物の「在る」領域のそれは、膨大なスケールの違いが実際にはあるのだ。空気と呼ばれる領域は「無」だと感じてもおかしくないくらいのスケールの違い。「宇宙」と「素粒子」について考えるとき、私たちの生きる空間のスケールから大きくかけ離れているという意味では全く等価なんだ。時間だって同じ。境界というのは、スケールの違いの幅によって、その明確さの度合いが変化するのではないだろうか。私たちが知覚しうるスケールは、この世界のほんの一部なんだよ。だから、境界は存在するんだ、と僕は思う。』

半分くらい煙に巻かれてますが、まあ少し落ち着きました。確かにスケーラビリティの問題は重要ですな。今書いていて、国語の教科書で読んだ小林秀雄(だったよね?)を思い出しました。「地球は丸い。厳密には扁平だが、地球の大きさに比べれば、その差はほんの僅かなのだ。だから、地球は実際には丸いのだ。」というような文章。

どちらにしろ、わたしたちの知覚は断絶されているのだなと思います。知覚の内と外では、スケール以上の大きな違いが横たわっているのです。あなたとわたしの間にも。まあ、そんなわけで、知覚的近くに説明上手なヒトがいることは幸福なことです。説明のお礼に、今度お花の名前を教えてあげましょう。美味しいご飯を食べましょう。

2005.10.27 Thu
はみだしすぎ

コミュニケーションの手段として、
社会を成り立たせるシステムとしての言葉。

小さな頃に言葉のようなものを発して理解を得た瞬間、
とてもプリミティブな感情で嬉しいと感じたように思う。

ヒトがこの地球という世界で生存するために、
私たちは種として言葉とともに進化することを選んだのだから、
言葉の習得にプリミティブな喜びがあるのは当然で、
そこには言葉として本来の美しさがあると思う。
ヒトをつなぐ役割をになう存在である言葉はそれ自体とてもステキだと思う。

けれど、この世のあらゆる存在は言葉をはみだしている。
わたしの使う言葉があなたのそれとは違うということではなく、そのままの意味で。
宇宙から見た地球のようにあらゆる意味で境界などないから。
言葉で表されることがらは解釈でモデルでメタファーなのだから。
ほんとうはここにはまぜこぜのエネルギーが闇雲に在ったり無かったりするだけなのだ。

そんなことを考えてると、
ムムム~となりつつも、ラララ~となります。

ここに在ることを選び続けるためには、
変化し流れる空気を風と呼び、
意識をつかさどる器官をこころと呼び、
メタフォリカルな思考で世界をとらえ、
言葉で何かを共有し交換しなければならないのです。
はみだしていることを知りつつも、
言葉にせずにはいられないのです。

ラララ~♪で、ムムム~?ですね。

『根本をわかろうとするというのは、無意識の舞台へと移ってしまったものごとについての意識をとり戻そうとすることだ。あんまりやりすぎると心を乱すことになるのは確実である』/サミュエル・バトラー

でも、少しは取り戻したいねん。

2005.10.23 Sun
blogとのおつきあい

全く知らないヒトのblogを読むことというのは
どのくらいの割合であるのだろうと思います。
計算好きの私が計算してみましょう。
日本を対象とします。

インターネット人口;70,072,000(人)
参考 http://www.iajapan.org/iwp/

ウェブページ数;200,000,000
参考 http://www.2004.jp/mailmagazine.html

ブログ数;600,000
参考 http://kurokage.seesaa.net/article/3236349.html

検索エンジン利用ユーザ;84%
ユーザー1人あたりの平均検索エンジン利用回数;33回/月
1回のアクセスで検索する件数;4.4回
(日本のデータがないので、米国データを流用します)
参考 http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/08/12/4260.html

全国での平均web検索回数;
70,072,000×0.84×33/30×4.4=284884723.2(回/日)

1回検索した場合いくつのサイトを実際に見るか?;5サイト
(経験上もっと多いが平均するとこれくらい?ここがデータ見つからんのんです。)

全国で検索結果としてブログを見る回数;
284884723.2×5×600,000/200,000,000=4273270.848(回/日)

あれ、実は1人当たりで見た方がいいので、人口の値関係ないやん!
まあ、もっかい人口で割ろう。

1人当たりで検索結果としてブログを見る回数;
4273270.848/70,072,000/0.84=0.0726(回/日)

ということは、逆数にして、
1人当たりで検索結果としてブログを1回見る日数間隔;
1/0.0726=約13.8日
  

続きを読む »

2005.10.20 Thu
発芽玄米

おうちでできるらしいです。
http://www.setuyaku.info/hatugagenmai.html

家で芽を出させるって、
なんか斬新な考え方。

あ、
でも、
そうよ、
発芽した、
玄米だもの。

うちの定番は押麦ごはんですが、
今度やってみよー!

2005.10.20 Thu
身体のつながり

少し続いたお稽古も、少し間が空くことに。

最近の訓練で思うことは、
身体をどのように覚醒させるかということです。

帰山さんに紹介していただいて、
野田まどかさんと一緒にお稽古しているのですが、
身体をパーツとして徹底的に分割し、
丁寧にパーツのつながりを見ることによって、
さまざまな感覚がいかに眠っていたのか、
鮮やかに意識する瞬間があります。

無限の水玉である細胞を
無限の網である神経が繋いでいるようなイメージ。
肉塊や骨からの感覚を、
その部分独自の思考で捉えること。

そして身体のつながりだけでなく、
世界とのつながりも。

床に触れる身体は
床を押していると同時に床に押し返されている。
お稽古してて、ありありとそれを感じた時には、
ちょっと何とも言えず泣きそうになりました。

身体に向かう内なる眼と、
身体の外に広がる広大なモノの宇宙に向かう眼を
同時に持ち続けること。

想像しきれぬ多くの細胞がパーツをなしさまざまな仕組みでつながる身体。
目にするのは一部である多くの物質がさまざまな仕組みでつながる世界。

目を開こうと思います。
目だけでなく無限の身体感覚で世界に触れ続けたいと思います。
ぶよぶよと膨れ上がったり、くっきりとした輪郭をなしたり、
さまざまな視点で感覚で、世界とつながる身体を理解したいと思います。
それは、よそよそしいモノとしての自分の身体を
脱構築してヒトにする作業なのかもしれません。

そして、発表するしないに関わらず、
作品化したいと思っています。
そこには前回できなかったことに対する、
あるひとつの明確な思いがあります。
思いをカタチにせねば。
からだとこころを覚醒して。

新しいヒトよ、眼ざめよ。

と自分に向かって言ってみたり。

2005.10.17 Mon
散歩狂

さんぽさんぽさんぽ!
いろんなさんぽ!

現代美術の場では作品発表ということについて深く考えさせられ
雨に塗れそぼる軍艦アパートでは免れ得ぬ時の流れを感じ
ある町では放置され無視された広大な土地とフェンスと廃屋に圧倒され

散歩はいつも様々な思索の素となります

ポケットに地図と文庫本とデジカメとお財布を入れて
地図を見て歩いたり
本を読みながら歩いたり
風景を撮影したり
のどがかわけばお茶飲んで
おなかがすいたらご飯を食べて
なんてしあわせなおさんぽライフ!

でもねそうそうこんな気持ち
http://www.1101.com/uma/2005-08-17.html

2005.10.12 Wed
ただいま

また東京に行ってきました

「セビリアの理髪師」は
イタリアオペラらしく
軽妙洒脱な感が強く
どうも肌に合いませんでした
技巧的な曲と声もすごいんだけど
やっぱりワーグナーだな

クラシックにはあまり詳しくないですが
ベートーベンとかワーグナーとかチャイコフスキーとか
人智を踏み超えパラノイア的凶暴さを抱えた作品が好きです

美しいひとつひとつの楽器の音が
荒れ狂う旋律で戦慄をもたらす
その瞬間に出遭いたいのですよね

あとはクラシックじゃないけど賛美歌
パイプオルガンは生で聴くだけで涙します
あれはドラッグだなと思います
美しき幻覚促進剤

昨日の午後に大阪を出発して
今朝東京を出発したのですが
新宿を行き交う人の流れの光景に忘我してしまいました
凶暴かつ美しきヒトの流れの調べ

単純な規則で点が驚くべき軌跡を描くライフゲイム
都市で起こる大きな大きなライフゲイムは
点であるヒトを飲み込み増殖と消滅を繰り返してゆくのだなと

ひさびさに何かを書くと
どうもまとまらないのですが、もう少し

帰りの新幹線の中で
「百年の孤独」を読み終えました
久々に読む本書
その描写のあまりのリアルさに
眼が耳が鼻が舌が皮膚が
その全ての感覚がぞわぞわと蠢きながら
ラストシーンを静かな気持ちで迎えました
その目も眩むばかりの凶暴な孤独のありようを
ただじっと見つめるばかりです

そして、帰阪


松岡正剛の千夜千冊『百年の孤独』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0765.html

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【アンナの日記】

ホロコーストの時代に生きたアンネ・フランクにこの日記は関係ないけれどいつか訪れたいアウシュビッツの風景を記録として記憶として鮮明に残せるよう日常を少しづつ撮影してみたり文章を書いてみたり

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