2005-07

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2005.07.31 Sun
拘束のドローイング

マシュー・バーニー「拘束のドローイング展」行きました。最高にイカれてて、イカしてました!今年もイロイロ見ましたが、タレルと並んでNo.1ですね。決定!詳しくはまた。いやー、ホントに、かっこいい!

同時開催中のコレクション展「アナザーストーリー」もとても面白かったです。カールステン・ニコライ「ミルク」、小谷元彦「ファントム・リム」、フィオナ・タン「リンネの花時計」、アン・メンディエータ「アイオワでのシルエットワーク」、曽根裕「アミューズメント・ロマーナ」等々とてもよろしゅうございましたよ。




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2005.07.29 Fri
LAST SHOW

「演劇」というカテゴリを作ってはいたのだけれど、いつになるかもうないかどうなのかと思っていたら、やっと、長塚圭史最新作。

ドクドクと脈を打ちながらそこにあるグロテスクでおぞましい生という怪物を、鋭く切り裂き、細かに切り刻み、最後にはファンタジーをふりかけて、シャレとして笑い飛ばして、トイレに流し込んでしまうような、そんな感じです。物語と役者というものの関係の怖ろしさを目の当たりにしてしまった、そんな感じです。演劇という切り取られた枠の中では、してはいけないことなど何もないのだ、成立しないことなど何もないのだと再確認した、そんな感じの反則技もすばらしいものでした。

血と暴力によって鮮やかに華やかに彩られた、家族と命の物語。
血の罪は血で贖わなければならないのです。

家に帰ると、月のものがきていました。血が血を呼ぶのです。わたしたちはこの内臓の裂け目から、おびただしい量の血と体液と、どろどろとした血の塊と共に、死ぬほどの苦痛を伴って、この世に生まれてきたのだと、鈍い痛みを感じながら、リアルに想像しました。とてもリアルに。

2005.07.27 Wed
似て非なるもの

何にリアリティを感じるかということを考えると、「似て非なるもの」ということにたどりつきます。「似て」という部分は、人間がそこにある限り、人間のようなものがそこにある限り、人間が感じている限り、つまりはドラーマが存在していれば簡単に成立してしまうのだけれど、その「非なる」部分の跳躍が問題なのです。なぜあんなに人形にリアリティを感じるのか、なぜこんなに文字にリアリティを感じるのか。「非なるもの」への跳躍が大きければ大きいほど、極端であれば極端であるほど、その「気分」がリアルなものとして了解されるのです。その跳躍に対するシコウは、わたしの抱える身体性そのもので、世界との距離そのものなのです。だからこそ、その距離を縮めるために、人間の身体を存在させながらも、高く遠く跳躍した「似て非なる」空間と時間を感じたいと強く願うのです。

「非なるもの」に如何に転換するのか、受け取る側にエモーションを引き起こすために、古来から様々な方法が試みられてきました。作品性というのは、その「非なる」部分の跳躍の仕掛けであって、いまさら「似て」のところを考えたってしょうがない、感情なんて自分だけの問題だ、ということを再確認して、ちょっとすっきり。当たり前のことだけど。

けれど「テレビ」というものの「非なるもの」への跳躍の暴力性にいまさらながらおののきます。良くも悪くも。科学の予期せぬ力のなんと大きなことよ。何だこれは。

ひとりごとっぽさが増してきた今日この頃のこのブログ。
ひとりブログとしての道を進もうっと。

2005.07.22 Fri
ひさびさ

久しぶりの更新です。最近読む本読む本面白く、世界は驚嘆に満ちておりますね。でも最近文章がきちんと読めなくて、困ってます。主観読書です。自分の読みたい文字だけ追っているような気がします。もちろんヒトとはそういうもので、だからこそ自分の認識として世界があるわけですが、今のわたしはそれが顕著ですね。感覚が欠落しまくってます。「才能は欠落だ」とは、けだし名言ですが、逆は真ではないのが、この世の悲哀であります。「生きるとは、死にかけているようなものを、絶えず自分から突き放していくことである」とのニーチェ大先生の言葉を噛み締め、まあそんなわけで、面白く、驚嘆に満ちている、そんなものを見ながら、読みながら、感じながらの、毎日を過ごしたいものです。

わたしのこの埋まるはずのない欠落が、大きな口を広げて、世界をわたしをまるごと飲み込んでしまえばいいのです。終わりも始まりも、内も外も、そんなものは同じなのだから。逆もまた真なりと言い切ってしまえ!

そんなわけで、大空でも飛んでみようっと。
http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/1381/sora/sora.html

2005.07.15 Fri
写真

H●LL公演写真が届きまして、500枚以上の写真から、web掲載用の25枚を選ぶわけですが、いやもう楽しいやら大変やら悩むやら。まずは1.5秒/枚のスライドショーで、候補写真のメモとりながら見るわけですが、それだけで、1.5×500/60 = 12.5分ですよ。その後候補の写真(この時点で50枚くらい)を選別選別選別。絵をどう切り抜くかまで考えると、パターンは無限ですよね、ほんと。ということで、アップしましたので、是非ともご覧ください。撮影は裏野智洋さんと、河越一都江さんです。ありがたいことです。
http://wire.xrea.jp/cross/hollphoto01.html

全ての行為は、意識していようが、無意識であろうが、実際に無限ともいえるたくさんの可能性を棄てることであって、いまこの瞬間が在るわけです。作られるところからすぐに消えてゆく媒体、瞬間の媒体ということで、「生」そのものである演劇がわたしは好きだし、舞台というものが好きなんだと思います。ただ写真という媒体によって、切り抜かれた風景は、それを体験したものにとって、とても切ないものですね。実際は大爆笑しながら、写真を選んでましたが・・。

先日あの巨匠テオ・アンゲロプロスの7年ぶりの新作「エレニの旅.」に行ってきました。そのオープニングタイトルは古い家族写真で構成されているのです。あらゆる家族の肖像。喪失そのものが、繰り返し繰り返し映し出されるのです。まずその部分で、このまま静かに心臓が止まってしまうのではないかと思えるほどに、静謐で哀しく、その後の本編も、それはまあ美しく、本当に美しく、圧倒的に美しいのですよ。こちらも是非ともご覧ください。
http://www.bowjapan.com/eleni/

2005.07.14 Thu
ゴッホ ゴホ

わたしは油絵具匂いフェチなこともあり、
鼻先に匂うような、
オイルの匂いでむせるような、
ごってり塗りこんだ作品が好きです。

そんなわけで、
日曜日に見てきました、ゴッホ。
1時間並んで。
ごった返すヒトゴミの中で。

今回はゴッホの活動の足跡をたどる、
時間の流れに従ったコンテキストで鑑賞する、
というコンセプトの展覧会なわけですが、
実際に足を運び作品を観て、
ゴッホというヒトの「生」そのものが、
リアリティを持って、
わたしという知覚を、
飲み込んだように思えます。

初期は暗い画面です。
聖書や靴という、
個人的な体験そのものを、
ダウナーなトーンで描きます。
光は清冽でなく、
闇の中にひっそりと存在し、
けれど確実に呼吸しています。
その「暗い光」ともいうべきアクセントが、
ある孤独をより際立たせています。

時代を経るごとに、
徐々に光が強く鮮明になっていきます。
けれどコントラストも同時にきつくなります。
絵の具の重なり、うねりも激しくなります。
一見は明るい画面に見えるのですが、
根源的な暗さはかなり強くなるのです。
ごってりと盛られた絵の具が、
光を乱反射させ、細かな闇を作り出します。
濃度を増し、光を増し、闇を増し、
「生」を記録するという行為が、
「生」という不明確なものそのものが、
濃密に画面にあふれます。

そして耳を切り落とした後の「晩年」という生。
年齢的にはそれほどではないのだけれど、
「晩年」としかいいようのない風景があります。
「死」を意識したものの見る世界。
「死」を覚悟したものの見る世界。
光にあふれ、闇にあふれ、色彩にあふれ、
激しくうねる絵具の軌跡。
自然の造形の中にある美しさが、
彼の目を通して、
具体的にカタチになります。
ゴッホの「原風景」そのものがカタチに。

その崇高な闇を光を、
描いたゴッホという生きたヒト。
全ての作品は遺作なのだと思います。
死後に体験するわたしたちにとって、
全ての作品は遺作なのです。
遺された「光」と「闇」。
遺された「生」。

今度見るときには、
常設の美術館で、
ゆったりと、のんびりと、
柵などなく、身近に、
鑑賞したいと思いました。
行かねば、オランダ。

2005.07.11 Mon
テレビの中の殺戮と破壊

テレビのニュースで知るテロリズム。
イージーでコンビニエンスなテロリズム。
近代都市で起こる無差別な破壊と殺戮。
顔のないテロリスト。唐突な悪意。

テレビのドキュメンタリーで知るジェノサイド。
アフリカの乾いた貧困の地で起こるジェノサイド。
何万人もの人々が、家を、家畜を、命を焼かれる。
隣人の手による破壊と殺戮。間断ない悪意。

あなたはどちらによりリアリティを感じますか?
あなたはどちらの命がより重いと感じますか?

2005.07.09 Sat
dots[KZ]

dots行ってきました。この日記読んでる人ならわかるでしょうけれど、まあ色んな気持ちを抱えて[KZ]へ。

観劇前に、baby-qのyokoちゃんにたまたま会ったり、yokoの知り合いのワイアーフリークさんにH●LL感想聞いたり、わたしの心のアイドルhuman flowerの内田欽弥さんに会ったり、今日来て良かったわん!嬉しいわん!

終演後は久しぶりにかなり真剣にアンケート書きました。

語り得ぬものは、語り得ぬからこそ、語られようとし、実際には語られるのです。語ろうとする意志はどうあるべきなのか。身体を提示するということはいかに覚悟を必要とするのか。ということを考えましたね。そして観客の想像力をどのように刺激するのか。

ワイアーの場合は、過剰なほどに、言葉という情報、テキストという情報を提示し、観客の想像を限定し、観客の想像を叩きのめすことによって、観客をテキストから言葉から遠く離れさせ、彼岸に連れてゆく、それがワイアーにとっての語り得ぬものを語ろうとする意志なのだろう(それができているのかは置いておくとして)と私は理解しています。その上に、ヒトの身体がどうあるべきかは、まだまだ考えなければならないところですが。

[KZ]の場合、台詞はなく、音と光と映像と身体と、いまここにある時間と空間の中で、いまここにあるヒトの身体で、[KZ]について語られるわけですが、そこにあるだけでいろいろなものを語ってしまう身体を、作品の中にどう位置づけるのか、収容所というテーマを知っているわたしたち観客の想像を、どのように限定し、働かせてゆくのか、なかなか難しいものだなと思いました。けれどカンパニーとして[収容所]という巨大な語り得ぬものに正面から挑むその姿勢にはとても好感を覚えました。

ラストにねじくれながらもヒトが前に歩むシーンはとても好きでした。わたしも何度も投げ出したかったと思います。それがあの時間と空間のなかでわたしの考える身体のありかたのすべてだったから。消えてしまうだけでなく、身体を取り戻そうとすることのすべてだったから。

concentration

頭の中で響きます。
作品の中で聞こえる低く響く男の声。

,,,where is my memory , ,where is my story , ,where is my body,,,,,


というわけで、詳しい感想というか覚書は以下に。
これから見る予定の方は、読まないでください。

続きを読む »

2005.07.08 Fri
『胎児の世界』

『このように見てくると、人間のからだに見られるどんな“もの”にも、その日常生活に起こるどんな“こと”にも、すべてこうした過去の“ものごと”が、それぞれのまぼろしの姿で生きつづけていることが明らかとなる。そしてこれを、まさに、おのれの身をもって再現して見せてくれるのが、われらが胎児の世界ではなかろうか。』

WI'REのサカイヒロTさん(仮名)が、
H●LL稽古帰りの電車の中で、
ニコニコして読んでいたので、
読んでみました、『胎児の世界』。

『ドグラ・マグラ』大好きっ子ちゃんのわたしが、
面白くないはずもなく、
三木成夫というヒトの壮大な夢想が、
鮮やかな論理によって、
探求という勇気によって、
科学として次第にカタチをなしてゆく、
そのことに感動しました。

特に、
ホルマリン漬けの胎児の頭を切り落としてしまおうか、
悩みながらも実行するくだりは息を呑みました。
そして、
その切り離され顕わになった胎児の顔の、
発生段階ごとの精緻なスケッチは、
迫力に満ちており、不思議に満ちており、
本当に圧倒されました。

何を隠そうわたしは学生時代は遺伝子工学を専攻しており、
そしてなおかつ発生学を専門としており、
発生過程を研究する上で、
ウズラの卵を切開し、
遺伝子操作した幹細胞を注入して、
発生段階を研究し、
キメラウズラを誕生させるという、
そんなことをしておりましたよ、ああナツカシや。

イノチの不思議。ヒトの不思議。わたしという不思議。

わたしたちにプリントされている広大な地図。
まだまだヒトの力では理解できるものではありませんが、
情熱で勇気で読み解こうとするヒトの野蛮さを狂気を、
いとおしいと素直に思います。

『松岡正剛の千夜千冊』でも紹介されています、本書。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0217.html

あたしの最近のささやかな夢は、
インテリジェンスあふれるおじいちゃまから、
このよの森羅万象ありとあらゆるお話を聞きながら、
ゆっくりと眠りにつくということです。

波のリズムを、
宇宙のリズムを、
イノチのリズムを、
感じながら。

安らかに眠らせてください。

2005.07.07 Thu
七夕ちゃん

今日は七夕ですね。
おほしのおまつり。
わたし行事の中でも七夕はかなり好きなのです。
さーさーのーはーさーらさらー♪

おうちで浴衣でも着ましょう。
おそうめんゆでて、
たくさんの薬味を添えて、
おしょうゆで甘辛くおなすを炊いて、
きんと冷やした茶わん蒸し、
そして涼やかなくだものでも。
のんびりと夏のゆうげを楽しみたいものです。

きょういちにちは、
おほしに願いをかけて。

うちのにゃんこ先生の誕生日でもあるのです。
ハッピーバースデイだ、にゃん。
おさかな買って帰ろ♪

2005.07.06 Wed
DiD

ダイアログ・イン・ザ・ダーク予約開始のお知らせがメールで届きました。
是非とも行かねば!!

http://www.equiv.net/did/

2005.07.05 Tue
ヒコーキ!ヒコーキ!ヒコーキ!

ヒコーキはサイコーでした。
まずあの飛び立つ加速感。
昔のそれとは違って、
シートに押し付けられるような感覚はなくなり、
スムーズに加速していくんですが、
でもあの暴力的な加速と、
飛び立った時のえもいわれぬ感覚は、
忘れていた何かをいつも思い出しますね。

流線型の美しい身体をもつ、
巨大な鉄の機械が空を飛び、
その体内にいるわたしから見た世界の
なんと美しいことよ。

地上10000mの上空。
眼下に広がるぶあつい雲の海。
外気温はマイナス15度。
天上から降り注ぐ光の粒。
透き通るような青い空。

テクノロジーのもたらす、
スピリチュアルな体験。

帰りも乗りたかったのですが、
時間が未定のため、
新幹線で帰ってきました。

夜のヒコーキもいいものですよね。
地上の膨大な数の光の点と、
月と、闇と、轟音と。

2005.07.04 Mon
『匂いの魔力-香りと臭いの文化誌』

『誘惑する力、差別する力、殺す力、癒す力』

いにしえには生死を左右する唯一の感覚とされるほどに、力を持っていた嗅覚。香りは血であり、血は香りである。古今東西さまざまな宗教的儀式で、香は血とともに用いられる。血の契約は香りとともに交わされる。そして、治療。ヨーロッパに蔓延した黒死病の治療に、呪術医によって瀉血とアロマテラピーが同時に行われる。香草が焚きしめられた空間で、患者からあふれ出す病の血。そして暗黒の世の終末には、ミルラで処理された死体ミイラが薬として用いられる。

分子と受容体の、直接的な接触によって得られる「匂い」という現象に、わたしたちはいかに接し、魅了され、恐怖してきたか。絶大な力を持つ「匂い」だからこそ、現代の私達は、無視し、抹殺しようとしているのではないか。

死臭あふれる暗黒の時代。死臭が隠匿された暗黒の時代に生きる私達は、この失われた感覚とどのように向き合うのか。想像でない、本物の死の匂いと。

2005.07.04 Mon
お能

観客と同じ身体を持つ能役者が、
面(おもて)という身体的異物をつけ、
新たな身体を得ることにより、
人間を超越し、
神・霊・鬼など
現世の物ではなくなる、
その瞬間の夢幻の美。

仮面を付けヒトならざるヒトが、
死と生をつなぎ、
在りし世を語り物語を再生する。
哀しむべき魂は昇華され、
あちら側へと帰ってゆく。
そして夢がさめ、
この世に、日常に帰る。

鎮魂の芸能。

世の恐怖や不条理が、
悲劇的でありつつも、
美として表現される、
「能」の世界。「幽玄」の世界。

舞台表現とは何なのでしょうね。
今、この今、リアリティのある舞台表現とは、何なのでしょうね。

というわけで、何でも勉強するのは楽しいもの。
明日は飛行機に乗って行ってきまーす。
飛行機大好き!
あの飛ぶ瞬間のドキドキはたまらんです。
加速しろ!飛べ!金属と肉の塊よ!

2005.07.03 Sun
死ぬまで生きろ

『人生のあらゆる行為にはとりかえしがつかない』 養老孟司

以前、ドキュメンタリーで、ある芸術家が、作品についてコメントを求められたところ、「終わったことなので何も言うことはない。それより私は次の作品で頭がいっぱいだ。まだまだアイデアはたくさんあるんだ」と答えていたことに、非常に爽快感を覚えたものです。そうだ、そうあるべきだと。

でも、今回はやはりきちんと省みることにします。この1年間、作品が終わるたびに、わたしなりにいろいろと考えてきました。言葉にしてきました。次の作品につなげるために。でも、今回は最終章だから、もういいや、終わったことは終わったことだ、もうとりかえしはつかないのだから、と全て終わったことにしてたのですが、やっぱり終えていないのです、わたしは。

喪失の日々、喪失を約束された日々。あらゆる行為にとりかえしのつくはずもなく、今までのことだって、やりなおせることなどひとつとしてないのです。だからこそ、きちんと過去を見つめねばと思います。自分のために言葉として残そうと思います。日々失われ変容していく記憶を、過ぎ去りゆくいま残さねばならないと強く思います。

死ぬまで生きるために、見えぬモノをイミを、カタチにしようとし続けねばなりません。ヒトとは何か考え続けねばなりません。ワタシは何か考え続けねばなりません。言葉を通して、身体を通して、理解できるはずもないことを、理解しようとする野蛮な勇気を持って。

2005.07.02 Sat
言動不一致

凸凹という漢字はそのままやん!って突っ込みに満ちていて、その微笑ましさに腹がたったり、そんな漢字作ったヒトというもののかわいらしさに嫌気がさしたりしますが、基本的には好きな文字です。ヒョウイしてますから。きちんと。カタチがイミですから。凸ちゃんと、凹ちゃんは、いつか出会って□に、そして○になれるのでしょうか?なれないのですか?教えてください。凸で凹なわたしは、もうそれで完璧でありうるのかもしれないですか?でも、今日は凹です。真ん中が凹んでます。酔った目に、世界はにじみ、夏の夜に溶けてしまいましたとさ。めでたし、めでたし。え?あれ?バターのように溶けてどろどろになったのは、私ですか?世界ですか?

2005.07.01 Fri
能勉強

「能」について、
来週ちょっとした取材をすることになり、
短期間で勉強しなければなりません。
良い解説本・サイト知っておられたら、
教えてください。
数少ない読者のみなさま、
もしよろしければお力を。
個人的にメールでも。

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【アンナの日記】

ホロコーストの時代に生きたアンネ・フランクにこの日記は関係ないけれどいつか訪れたいアウシュビッツの風景を記録として記憶として鮮明に残せるよう日常を少しづつ撮影してみたり文章を書いてみたり

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