2005-05

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2005.05.31 Tue
ヒビのワレ

たとえば、
わたしは空に、
小さな黒い亀裂を
見ている、
いつも。

いつか、
その世界の裂傷が、
わたしを飲み込み、
肉を喰み、
骨を砕き、
わたしの全てを、
破壊しつくすことを、
知っている。

そして、
それが、
そのことは、
そんなに、
心地悪くないことも、
知っている。

そんなふうに、
想像しながら、
空を見上げて、
ちょっと笑う。

そんなわたしの日常。
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2005.05.30 Mon
ビュワーン読書ビュワーン

今日は新幹線で東京へ。

朝少し早く家を出て、
あのカモノハシのような乗り物に。
小説を読む。旅でこそ「物語」。

窓の外を流れる風景に合わせて、
物語を読むスピードも上昇する。

物語はばらばらに分断され、
イメージが言葉が、
体の芯を通り抜ける。

グングンとばす。
グングンとばして読む。

1冊目読了。

すこし余韻にひたるも、
むしろそれに耐え切れず、
再び別の本のページを繰る。
またも加速するイメージ。
万物は流転する。

グングンとばす。
グングンとばして読む。

2冊目読了。

もう止まらない。
新幹線は走り、
活字も走る。疾駆する。

3冊目読了。

もう読むもの無く、
ただ、呆然と、外を見ると、雨。

雨が降っている。

わたしに残るのは、
誤読の連なりだ。

今、ここにあるわたしがみつけた
イロトリドリのセカイ。

帰りに読む分がなくなってしまった。
まいったな、しまったな。
あー、こりゃ、こりゃ。

2005.05.29 Sun
光あれ

わたしがうまれたことを、
父は空港で知ったそうです。
そしてイスラエルへと旅立ってゆきました。

うまれたばかりのわたしを見ることもなく、
聖地を巡礼し、神の声に耳を澄まし・・・。

そんなわけで、聖書はいつも身近にあり、
こどものころは旧約聖書をよく読んでいました。

『はじめに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』

黒聖書とよばれるものが発禁図書として、
バチカン図書館の奥深くに眠っているそうです。

『はじめに、闇があった。
闇は混沌であって、黒い神は深淵の面を動いていた。
黒い神は言った。「光あれ。」こうして白い神があった。』

神は人類を救済などしない。神は人類を積極的に滅亡させようとしている。ならば、人類は自然の法則を追い落としてしまえばよい。人類が万物に君臨する「神」になればいい。とか書いてあるみたいですよ。

ちょっと読んでみたいものですよね。

2005.05.28 Sat
『対象喪失』

「知的には、愛する対象はもはや存在しないことがわかっているのに、人間はリピドーの向きを変えたがらず、代わりのものがさそっているというのに、それでもその向きを変えようとしない。」「悲哀の仕事とは、この対象とのかかわりをひとつひとつ再現し、解決していく作業である」

「モラトリアム人間」という言葉を作りだした作者が、
「対象喪失」に対する人間の反応について、
フロイトの「悲哀の仕事(mourning work)」について記述しながら、
現代(といっても1979年ですが・・・)の病理を読み解く
すばらしくすばらしい本です。

ユダヤ人強制収容所における人々と、
現代のわたしたちが、
「対象喪失」に対して、
同じような病理を抱えているという考察に、
非常に納得しました。
静かに、深く。

そして、
多くの喪失と悲しみの症例に触れることで、
わたし自身が行うべき「悲哀の仕事」が、
少し進んだような、
そんな気がしました。

「悲哀の仕事」とは、喪失の必然と和解すること。そして、喪失を受け入れること。失った対象または失う自分を心から断念すること。しかしながら、悲哀の苦痛は、依然として苦痛としてそこにある。それが、人間の限界で、現実だ。

死だけでなく、常にわたしたちに寄り添う影である、喪失という現象。喪失に対する悲しみを極めて丁寧に記述している本書。必携の書です。

2005.05.27 Fri
わたしの日記はよい日記?

ちょっと読み返すと、まあお恥ずかしいですわ。
同じところをグルグルまわってますね、思考が。
グルグルとスパイラルを描きながらも、
上昇していけばいいのですがね。

ハズカシついでに、
cross2写真など載せてみました。

たぶんグルグルしてるところ。



2005.05.26 Thu
ことばとこころ

使ってはいけない言葉がある。
日常的な言葉のなかにも個人を圧倒的に打ちのめす言葉がある。
わたしは自らの発することばによって
どれほど他人の血を流してきたのだろうか。
言葉なんて捨ててしまいたい、と思いながら、
言葉について、考える。

「言語・概念の起源は、メタファーを経由した、肉体のはたらきである」

メタファーと認知
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html

ことばによることばの思考によって、
内臓のメタファーであるこころが、少し静まる。

2005.05.25 Wed
『RE DESIGN』

こんなものがリ・デザイン。
http://www.ndc.co.jp/hara/home/re_design/

■トイレットペーパー 坂茂
■出入国スタンプ 佐藤雅彦
■ゴキブリホイホイ 原研吾
■記念日のためのマッチ 面手薫
■シール・ラベル系グッズ 佐藤卓
■ゆうパック 田中一光
■祝儀・不祝儀・ぽち袋 谷口広樹
■絵葉書 藤井保
■タバコのパッケージ 大貫卓也
■名刺 赤瀬川原平
■切手・消印 浅場克己
■おむつ 津村耕佑
■ボウリングスコア・グラフィックス 松本弦人
■小学校1年生の国語教科書 祖父江慎
■朝日新聞 アラン・チャン
■日めくり ドリアン・T・助川
■年賀状 永井一正
■千歳飴 横尾忠則
■色の名前 原田宗典
■原稿用紙 鈴木一誌
■CDケース 内田繁
■ティッシュペーパー 平野敏子
■紙皿 織咲誠
■タクシー領収書 坂東孝明
■紙の証明 吉岡徳仁
■ゴキブリホイホイ 竹山聖
■金魚すくい器具 藤森照信
■ティーバック 藤澤直人
■コーヒードリッパー 大江匡
■絵葉書 都築響一
■トランプ 仲條正義
■0歳児の絵本 北川一成

このなかの竹山聖のコメントの中で「欲望のエチカ」という言葉がでてきます。モラルでなくエチカだなと思います。色即是空という言葉も思い出します。デザインというのは欲望という目には見えないものをカタチにする行為。身の回りにあるモノをきちんと見つめると、形而上のヒトそのものが見えてくるのだと改めて気づかされます。モノの本質を見つめ、新しいカタチを作りだしたこの試みは、欲望という生の営みを理性的にとらえたエチカそのものだなと、ちょっと感動。

2005.05.24 Tue
ウェブサイトつくるなり!

ネットマニア
http://www.netmania.jp/

あたらしいウェブサイトつくることになりまして、まあたいへんですわ。

わたしが初めてつくったウェブサイトである
「スカトリロ」サイトをつくったときにとても参考にしたサイトです。
クールサイトリンク集がクールですね。

わたしにとってはサイトのクールさとは、
コンテンツにフィットしているストラクチャとユーザビリティです。
いくらFlashで見た目かっこよくても、だめなサイトは山ほどありんす。

にほんごのちからも、また重要なり!
小説はブログに書くまいと決めてるのですが、
最近は小説ばっかり読んでますね。
だって予約してた本がバンバン届くんですもの!
本のあるこの幸せよ。人の望みの喜びを。

よし、がんばるなり。

2005.05.23 Mon
きょうの読み物

「人間」とは何か
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/ESSAY-peace28human.htm

ふむとむーのあいだぐらいですね。

直島なつかしいな。
波の音聞きながらなら、
うまく眠れるような気がします。

『風の音を聞いていればいい』『僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成りたっているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する。』 海辺のカフカ/村上春樹

2005.05.22 Sun
光の南寺

きのうの日記では書きませんでしたが、
夜にベネッセハウスに行きました。

「美術館には夜がよく似合ふ。」

夜の静寂、外の闇を感じつつ、鑑賞できる贅沢な時間。
ほんとうに誰もいなくて、監視するひともいなくて、
ひとの気配が全くなくて、わたしの知覚と作品だけが、ここにはあるのです。
美術ライブラリもあるのです。至福の読書があるのです。至福の時があるのです。

この世の図書館と美術館は、せめて夜9時まで、やってくれればいいのにね。

ということで、昨日は終わり、今日。
今日は「町プロジェクト」の見学。
直島のもうひとつのタレルを感じるために。

ジェームズ・タレル
「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」は、
すでにない寺「南寺」の跡地の
安藤忠雄の手による建築物の中に
設置されています。

杉の焼板でおおわれた深黒の建物は、
古い町におごそかに存在し、
かつてあった信仰を感じさせます。

そして係りの方から説明を受け、
木が香る真黒な建物の内部へ。

#ここからは、作品の説明も含みます。行きたい人は読まないほうがいいかも

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2005.05.21 Sat
励起する島

瀬戸内海に浮かぶ小さな島、直島。
そこには様々な形で現代美術作品が設置されている。

現代美術と建築が融合した
フィールドワークによって
島は励起する。

宿泊することのできる美術館。
空間作品としてそこにある家。
屋外に設置された数々のオブジェ。
海に向かう山に埋められた地中美術館。
ここにあるサイトスペシフィックな作品たち。
空間に作品が設置され、
その空間がさらに大きな空間に設置され、
その大きな空間がこの世界に設置され、
再帰的に続くインスタレーションという行為。
日本に設置された直島という作品。
そして知覚を与えられたわたしという存在。

先日、金沢21世紀美術館で、
ジェームス・タレルの「ブルー・プラネット・スカイ」を見ました。

四角く切り抜かれた空。
身体をつらぬく圧倒的な光。
存在と非存在のはざまに
わたしがふとそこにあるような
そんな静粛な体験。

地中に埋められたタレル
失われた寺の跡地にあるタレル
それはどんなものなのだろう?

どうしてもどうしてもどうしても見たくなり、
直島に行くべきか、
生きるべきか、死ぬべきか、
それほどに私にとって重要な問題になり、
とうとうやってきました、直島。

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2005.05.20 Fri
ああ、こころのあいじん

Draconia Wiki
http://wiki.draconia.jp/

愛してます、澁澤センセ。
誰かわたしに全集をプレゼントして!

2005.05.19 Thu
『毒草を食べてみた』

「ほんでどうなったん?!」

って、手にとってしまいました。
シンプルで良いタイトル。

澁澤龍彦の『毒薬の手帖』を持ち出すまでもなく、いつの世も、人は「毒」と「薬」というアンビバレンツさを持つ毒草の美に魅せられてきました。その毒草を実際に食べた人々、ギリシャ神話にたびたび登場する毒草、薬として多くの人々を救う毒草、殺人の道具としての毒草、毒草研究における人体実験、幻覚剤としての毒草、媚薬としての毒草、毒草を使用した処刑などなど、44の毒草にまつわるエピソードと考察が淡々と書かれています。

『美であれ毒であれ、
もっとも高い絶頂にあるものは、
いつだって刺激にみちている』

どれも面白いのですが、この中で、毒草のもたらす「幻覚」に対し、日本人が文化的・民族的に「不快感」「恐怖」を抱いてきたという考察が非常に興味深いものでした。「踊れない」日本人、「リズムのない」日本人ということと密接に関係しているのではないかと思うのは、わたしだけでしょうか?ねぇ?

2005.05.18 Wed
『アンネの日記』

この日記を書き始めたこともあり、
久しぶりに読み返しました。

たった1枚の隠し扉で隔たられた悲惨な外界の音を聞き、ホロコーストの恐怖に脅えながら、息を殺しただひたすらに日々を送るユダヤの人々。彼・彼女らの上には、狂気の種子が音もなくばらまかれ、黴のように侵食し、埃のように静かに積もってゆく。絶望と希望の間を行き交い、世界の終末と再生を同時に願いながら、閉ざされた空間で懸命に生きるアンネ。日記に描かれる言葉から、わたしは彼女のなまなましい肉声を聞く。いつからか、その声は、わたしのものとなる。アンネの言葉はわたしの言葉。わたしは読んでいるのか、書いているのか、どんどんわからなくなってくる。いまわたしはどこにいるのか、1943年のオランダ?それとも2005年の日本?けれど、アンネはわたしを追い越してゆく。極限の状況の中で、アンネの魂は紺碧の青空のように透みわたり、いたましいこの世界と向き合う力を得る。わたしは14才のアンネのまま取り残される。自身を制御できずこの世界に未だ慣れることのできないわたし。わたしは14才のアンネのまま、取り残される。

1944年7月15日
『わたしには、混乱と、惨禍と、死という土台の上に、将来の展望を築くことなどできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化してゆくのを、わたしはまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、いつの日かわたしたちをも滅ぼし去るだろういかずちの接近を、いつも耳にしています。幾百万の人びとの苦しみをも感じることができます。でも、それでいてなお顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。いつかすべてが正常に復し、いまのこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。』

1944年8月1日に書かれた
最後の日記から3日後に、
アンネは秘密警察に連行され、
強制収容所で息絶える。

もうひとりのわたしの死に、
声を殺してわたしは泣いた。

2005.05.17 Tue
闇に照らされ、わたしは輪郭を取り戻す

dialog in the dark
http://www.dialoginthedark.com/

いまわたしがいちばん体験したいことです。

絶対的な闇の中で、
わたしの身体像が
くっきりと姿をあらわすような
そんな気がします。

2005.05.16 Mon
ふたごのピラティス

「欲望のエチカ」
をキーワードにブログ書いてたのですが、
急きょ差し替え!

カタコトのニホンゴで、
ピラティスを教えてくれる
テレビのふたごに釘付け!!

まにあっくじゃぱん。

ふたりそろってピラティスやる姿は
もうなんというかかんというか・・・。

今日から放送開始で、明日再放送。
即ビデオ予約決定。ピラティスやること決定。

きんぱつのふたごさん、
すこやかなるこころをわたしに。

2005.05.15 Sun
庭と坂とネコ

今日はお散歩。
いつもはほとんど乗り物は使わず、
てくてくと歩くのですが、
今日は手抜きじゃなくて足抜きして、
地下鉄に乗ってなんばに。

はじめてなんばパークスに行きました。
ガーデナーを目指す私にとって、
空中庭園は憧れなのですが、
まあまあだなーという感じ。

私にとって庭園とは、
どう抽象化して自然をとらえるのか?
過ぎ去った時間をどう存在させるか?
というところにあるのですが、
自然を模すという志が形骸化して、
素材はいいものの、どこかで見たような風景ばかり。
園芸ブームでこういうとこが、
日本にはてんこもりにあるんでしょう。
オープンから結構たったし、
そろそろいい具合に庭としてこなれてきたんじゃないか、
という期待がしょぼりんこ。

イギリスの人口廃墟の庭園とか、日本の禅の庭園とかの、
ヒトの存在を霞ませるような、時が蓄積した、静謐な人口の自然。
そんな庭をいつか作りたいなと思うわけです。

というわけで、
なんば→日本橋→四天王寺というコースで、
お気に入りの口縄坂に。

『下から見上げた道が口縄に見えたというところからついたというのだが、
その起伏の微妙さは風化なのか、洗練か?』
眩暈を覚えますよ。この微妙な坂。

いつも猫に会えるので、それも好きです。
今日もキジトラのネコがぐっすりおねむ。
わたしは「ネコ坂」と呼んでいます。にゃお。

2005.05.14 Sat
『デザインのデザイン』

プロダクトデザインには昔から興味がありました。
身の回りにあるモノの大きさ、色、形、素材。
そこに込められたヒトの思考を読み取ること。

最近、プロダクトデザインでもテクスチャに興味があります。
たとえば、ペットボトルのフィルム。コンビニエンスストアに並ぶペットボトルはさまざまな触感に加工されています。

『デザインを言葉にすることはもうひとつのデザインである。本書を書きながらそれに気づいた』

このピリッとする文章で始まるまえがきで、何かを知ることは、知っているはずだった何かを未知なるものとして、そのリアリティにおののくことだと書かれます。

おののきました。

リ・デザインというプロジェクトで生み出されたプロダクトがたくさん出てくるのですが、そのひとつひとつがユニークでありながらも、モノの本質についての怜悧な思考が横たわっているのです。四角い芯のトイレットペーパーの表す批評性、「アフォーダンス」の発想に近接した換気扇型CDプレイヤー。見て、読んで、本当に面白いものばかり。

そして、「情報の建築」という考え方で、コミュニケーションを生みだすアプローチとして、五感に響く、特に触覚に響くデザインについて、実際のデザインを紹介しながら、解説します。これですね、わたしの最近の興味あるところ。なるほど。脳の中の情報構築プロセスに積極的に関与すること。なるほど。認知科学における「ハプティック」ね。なるほど。るるる。

ほかにも、田中一光から託された無印良品での仕事、愛知万博のプレゼンテーション等、とても大きなプロジェクトにも、コンセプトとしてのデザインワークが一貫してそこにあるのです。

アートとは精神を映す鏡
デザインとは社会を映す鏡

なのだと思いました。

現代の都市では、すでにアートとデザインはボーダレス化しているのでしょうけどね。
情報という圧倒的に厚い雲が否応なくヒトを覆う都市に住まう私だから、
その境界にある建築とかプロダクトデザインとかに興味があるんだな~。

2005.05.13 Fri
うめぐさ

<身体>についてのレッスン
http://www.nulptyx.com/pub_shintai.html

1日抜けると何か気持ち悪いので、
今日読んでなるほどな記事です。

画像は記事中に出てくるカラヴァッジオのナルシス。
カラヴァッジオの濃密な闇は、
Webではなかなかわからないですね。

2005.05.12 Thu
『暴力と芸術』

『芸術は野蛮か、崇高か? ナチ党首になった元貧乏画家ヒトラー、サディスティックな扇動家ダリ、殺人事件を犯したカラヴァッジオ、表現と暴力の親和性に初めてメスをいれた挑発的評伝』

この3人の生涯と作品を通じて、芸術そのものを読み解く鮮やかさに、深く心動かされました。

画家への道を閉ざされ、建築家になることを望みつつ、独裁者として圧倒的な権力=暴力で国家を、都市を、民衆の心をアーキテクトするヒトラー。彼にとっての芸術的行為への渇望・熱情が、あの凄まじい暴力の源となっていたことが想像できる。プロパガンダとして「退廃美術展」を開催、近代美術家を徹底的に嘲笑し、弾圧するヒトラー。途中、彼の描いた精緻な都市の姿が挿入される。あまりに精緻で、職人的で、芸術的個性の全く存在しないスケッチが、彼の中にある圧倒的な空白を語る。彼が何者であったのか、私には未だによくわからないのだけれど、極端に凡庸な芸術観をもった人間だからこそ生み得た、極端な野蛮さというコンテキストに納得する。またダリにおける美しき死の遊戯としての暴力的表現、そしてカラヴァッジォにおける、内なる鎮魂と外なる暴力が分裂しながらも融合する絵画、というように『美と暴力という妖しい双子の目眩く、目映いばかりの出会い』を、具体的に作品を分析し、その時代性を見つめながら、作者は発見する。

エピローグとして、神戸児童殺傷事件の少年Aの描いた絵を、この3人へのあてどもない彷徨であると、紹介する。精神を映す鏡としての芸術。人間の光と闇そのものである芸術。そのアンビバレントさに、私も魅せられるのだ。


アウシュビッツの写真を、私は未だ怖くて見ることができない。
この恐怖をいつか乗り越えることができるのだろうか?
アウシュビッツという土地にいつかたどり着けるのだろうか?
ただ、その周辺から、静かに少しずつ近付いていくしかないのだと、思う。

2005.05.11 Wed
『行動主義 - レム・コールハースドキュメント』

『あるときは度胆を抜くような大胆さと猥雑な露悪趣味をもって旧来の建築のイメージを打ち破り、あるときはロジカルかつ即物的な表現によって美的感性の矮小さをわらう。徹底的に可能性を使い尽くそうとする貪欲な姿勢は間違いなく建築家のひとつの典型であるが、人間性や調和のような古典的規範など彼は一顧だにせず、まして予定調和的均整からほど遠い』(日埜直彦)

『マンハッタンの成り立ちをゴーストライターとして解き明かし、建築の実作なくして建築界へ華々しくデビューした』という何とも奇天烈で人喰ったような思想界の知の巨人コールハース。現代の建築を語る上で最も重要な人物とも言える建築界の「怪人」。世界をかけめぐり、膨大な仕事をこなす彼と、行動を共にし、ドキュメントとしてまとめたこの本。

興奮します。その異端の思想を建築物として実体化する才気はもちろんすばらしいのですが、彼は世界そのものをデザインし、アーキテクトするかのように語り、行動します。本当に格好いい。惚れます。好き好き愛してるるる!!自らの持つ全ての力を使い、人脈を総動員して、エネルギッシュに走り続けるその姿に、思わず力が入り、最後まで一気に読んでしまいました。

はじめは面白い文章抜き出そうと思ってたんですが、コールハースの言葉ときたら、知性にあふれ、簡潔で、素晴らしいものばっかりだったので、とてもそんなことできませんでした。メモなんてとらずに、また読めばいいのです。そして、刺激を受けて、クリエイティブに思考する日々を送ろうではありませんか!!我共に行かん!

2005.05.10 Tue
肉体と魂

ヴィンセント・セクワティ・マントソ-の
「アリス零番舘 -IST」での公演に行ってきました。

1st piece;Gula
闇の中、鳥が啼く。光満ちると、Tシャツで顔を覆ったヴィンセント・セクワティが舞台の隅に。鳥であるヴィンセントが啼く。ゆっくりと歩を進める。Tシャツを脱ぐ。アフリカンな色彩の蝶々の柄の白っぽいゆったりとしたパンツに、張りつめた褐色の筋肉が美しい。そして、彼の瞳。エネルギーあふれる眼。痙攣的に首を動かし、ギラリ見開かれた眼で世界を発見し、鳥が踊る。無音の中、翼を広げ、地面を蹴り、力強く羽ばたく鳥。鋭い声を挙げると、音楽がこぼれだし、空気が緊張感を孕む。野生味あふれる強くしなやかな肉体の向こうに、遠い地平が見えるような気がする。鳥が地面を蹴り、砂埃が舞う、熱く乾いた風が吹き込む、しかし鳥は飛ぶことはない。ただ、必死に地面を蹴り、翼をはためかせる。これは人間なのだと思う。重力という、暴力的な大地の力と、闘う人間。

休憩。

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2005.05.09 Mon
今日のりんく

今日の気分でリンク集を編んでみました。
今日の気分なので、明日には変わるかも。

建築物を楽しむお散歩がマイブームです。
もともと散歩好き好き人間ですが、
ちょこっと目的があるとなお楽し。
昼と夜で表情が変化するのがまたよし。
散歩に行きたい。散歩するように生きたい。

関西今昔建築散歩
http://kenchiqoo.net/

2005.05.08 Sun
夏よ来い

今日は衣替えをしました。

夏の服いっぱい。
色とりどり、柄とりどり。

夏が好き。
暑いのが好き。
体温より世界が暑くなるのが好き。

2005.05.08 Sun
ブログでよいのか?

しかし、形而下のヒトとは何か?という問題について答えが出たわけでなく、むしろベルメールによってその問いがリアリティを帯びたわけで、私にとってヒトガタはヒトだというその1点が明確になっただけです。また、形而上のヒトとは何か?ということも、もちろん重要なことです。

日記とは何か?
私にとって、今この日記を書くことは、ヒトとは何か?わたしとは何か?の思考を残すトレーニングです。そして、わたしが「わたしたちのホロコースト」とどう向かい合うのかを探るアプローチのひとつです。ブログと名乗る意味はあるのか?公開する意味はあるのか?と思う今日このごろ。始めたことが発作的だったし。ちょこちょこ中身いじりすぎだし。と、迷いながらも、眠れなくても、そして人生はつづく。

まあ、ただの自分メモだということが言いたいわけです。
そんなつもりで、もう少し続けてみます。

2005.05.07 Sat
ヒトとは何か?

澁澤龍彦
『それは幾つかの関節によって繋がった、一種の奇妙な人体模型である。胴体を中心として、上半身も下半身も脚である。その伸びあがった脚のあいだから覗いている女の首が、 愛くるしい』

ハンス・ベルメールとの出会いで、
私は初めて人形にただならぬ興味を抱いたように思う。

ヒトとは何か?
形而上の問題でなく、今ここにあるヒトとは何か?
頭か?顔か?肢体か?

ハンス・ベルメールの人形において、
人の形すなわちヒトガタは徹底的に解体される。
頭部が切り離され、腕が切り離され、脚が切り離される。
または、頭部に脚が生え、沢山の球体が身体を覆う。
そして、遂には、球体関節のみが残る。
あるべきところに、あるべきものはなく、
ないはずのところに、ないはずのものがある。
究極の畸形が人形としてそこに。

けれど私にはそれはヒトにしか見えない。
圧倒的なリアリティーを持った、形而下の、ヒト。
わたしの身体より、はるかに血肉にあふれた、ヒト。
グロテスクで、けれどとても美しい、ヒト。
これは、ヒト、そのものだ。

###
前置きが長くなりましたが、
三浦悦子人形展『義躰標本室』に行ってきました。

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2005.05.06 Fri
『世界のひびわれと魂の空白を』

柳美里のエッセイ集のタイトル。

なにせタイトルがいいですね。
いいタイトル、いい装丁だなと思って手にして、いいまえがきだなと読み進めていくうちに、以前読んだことにはたと気づきました。エッセイ集ってそういうこと良くあります。

とにかくまあタイトルがすばらしいです。
自らをとりまく世界に真摯に怒り、真摯に格闘する柳美里だからこその、このハードかつセンシティブなタイトル。

『私は爪先立ちで、世界のひびわれと魂の空白に向き合っている』

わたしにとって、今、たった今、
どんな顔して生きているのか、気になるヒトのひとりです。

2005.05.05 Thu
帰宅、そして

H●LL

花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ



2005.05.04 Wed
はじめてのザゼン

1.丸い座布団をこねこねしてラベルを奥に向ける
2.座布団のほうに合掌低頭
3.右180度回り合掌低頭
4.座布団に向き直り、床のたたみ部分に腰掛ける
5.板の部分には手や足は触れないように気をつける
6.草履を床下にしまい、足を床に上げる
7.座布団に1/3くらい腰掛ける
8.右の足を左の腿上、左の足を右の腿の上に。座禅ポーズ
9.尻・膝の三点でしっかり体を支える
10.法界定印
11.そのまま右回りをして壁に向かう。ラベルが手前になる
12.膝の上に手のひらが上になるように軽くのせる
13.上半身を左右に揺すり、揺する幅を大から小へ。中心を定める
14.合掌低頭し、再度、法界定印
15.はじまりを告げる鐘
16.40分間座禅
17.おわりを告げる鐘
18.合掌低頭
19.膝の上に手のひらが上になるように軽くのせる
20.上半身を左右に揺すり、揺する幅を小から大へ
21.右に180度そのまままわる
22.足をほぐす
23.草履を出し、板の部分に触れないよう、降りる
24.座布団をこねこね
25.座布団のほうに合掌低頭
26.右180度回り合掌低頭

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2005.05.03 Tue
21世紀の美術館

金沢21世紀美術館という、ちょっと胡散臭い・・・名前の、最近オープンした美術館に行ってきました。

『世界の美術館 未来への架け橋』展
『妹島和世+西沢立衛/SANAA』展
上の2つの特別展と、
常設の展示物なんかをプラリプラリと。

「金沢21世紀美術館」自体が、
SANAAによって設計された建築物なのですが、
大きなガラスのサークルに囲まれた空間に、
大小さまざまな形の真っ白なスペースを浮かべるように存在させ、
また内部にガラスで囲まれた光庭(外部)が点在するという、
光あふれる透明感に満ちた安らかな空間でした。

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【アンナの日記】

ホロコーストの時代に生きたアンネ・フランクにこの日記は関係ないけれどいつか訪れたいアウシュビッツの風景を記録として記憶として鮮明に残せるよう日常を少しづつ撮影してみたり文章を書いてみたり

アンネさん少し力を貸してください




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